京都アートウォーク05


参加アーティスト&作品

特別展3
西行庵 土間席

西行庵 土間席
TORU OHTA

●太田 達
1957年、京都市に生まれる。1979年、島根大学農学部卒業。1982年、京菓子の老舗「老松」五代目主人になり家業を継ぐ。食のルーツを求めてアジア各地を巡り、照葉樹林文化帯における食文化を研究。客の注文に合わせて作る有職菓子(ゆうそくがし)の伝統を受け継ぎながら、新しい京菓子を摸索。 実験的茶会において、太田は、神々との交流のための食べ物、また、人と人との間をとりむすぶ食べ物である菓子、特に茶の湯の菓子を通して、一期一会、一席一菓について思索し続ける。

現在、立命館大学、京都女子大学等において講師。野村美術館、キルギス国立美術館で個展。また、トリプバン大学、ハーバード・ボストン・チルドレン博物館、東京大学等では、講演、実演を行なった。
FIFAユーロ2004、リヨンビエンナーレで黒田アキ氏とティーコラボレーション、安藤忠雄氏制作の茶室での茶会プロデュースなど。

 茶会(Tea Ceremony)は、亭主(Host)と客(Guest)の即興劇である。茶室という空間において、茶人は多くのモノ (Factor)を使い、創造的行為をなす。それは、客(Guest)、対象、鑑賞者への当意即妙の処置とならなければならない。 茶会の構成要素のなかで、掛軸はもっとも重要な要素である。それは、茶室空間の「床」に置かれるからである。美術、工芸品の鑑賞装置としての「床」は、日本の中世建築の中に生まれ、茶の湯の普及とともに、「床」に飾られる書画により、空間は時季、集会の目的、趣向にふさわしいものとなった。わび茶の誕生とともに、「床」は、客にとってより一層美術鑑賞の私的領域としての性格をまとい、ついには、その「床」の空間すら消去し、壁面を床に見立てる[壁床]を生み出すに至った。[壁床]にあるSHINJI YAMAMOTOの絵画を、OOTAは感じ、鑑賞する装置を茶の湯の空間の中に、作意し、創造する作業に着手した。
 今回、YAMAMOTOとOOTAは、テーマと亭主という関係にありつつ、実は共に客(鑑賞者)に向き合う構造となっている。それぞれの間には、葛藤が生まれ、茶会はそこに究極の協力関係を構築し、和敬の精神を通じて解決していく。ゆえにOOTAは、作品展示の始る前日、この席中においてYAMAMOTOに対し、一碗の茶を点てる。一客一亭の茶事を催す。以後、鑑賞者である客には、[跡見形式]、茶会の行われた後の気配を感じていただくという、茶事七式の一つの方法をとった。

作品  ー茶席へのいざないー
 茶席に入る前に、客(鑑賞者)は、露地庭を通り、作品のある茶室へと到達する。茶における美は、無法の侵入を許さず。客(鑑賞者)の心をニュートラルにする役割を、露地庭はもっている。
 OOTAは、[塵穴]に着目した。現代人である客(鑑賞者)は、三界の火宅を出て、塵労垢染を離れ、一心に清浄の境を求め、心を内観し、その心をニュートラルな状態へ導くものとすることを[塵穴]の作意とした。また、そのシンボルとしての[塵穴]の対面に、外露地用の黒い箒である[蕨箒]を配した。
 客(鑑賞者)は、いよいよ、[躙口]の前へ進む。[躙口]は、わずかに開けられている。これを、[手がかり]と言う。その下方には、中に亭主が控えることを示す一対の[露地草履]。この位置で茶室の中よりあふれ出る[気配]、まさに、「何ごとのおはしますかは知らねども・・・」という西行の歌にも似た[気配]の美を味わっていただく。今回の作意の中で、もっとも重要な鑑賞の場所である。ここは、亭主のOOTAによって作られた場所である。感覚的なものと、霊的なものの調和をめざした静寂性を保ちながら、強いエネルギーの感じられる瞬間を楽しんでいただきたい。

[壁床]かべどこ
床の間の空間を作らず、壁面のみを床と見立てること。
[跡見の茶事]あとみのちゃじ
茶事の行われた茶会後の跡を拝見する茶事で、非常に高度な日本的な美の鑑賞方法である。
[塵穴]ちりあな
絶えず掃除をすることが、露地(茶庭)の日常であり、箒と塵穴は、清浄への第一の道具であり、それを飾ることで、その心を伝える装置となる。また、塵穴に添えられた塵箸は、いくら掃除をしても落葉は絶えずあり、それを客に手で拾わせないための亭主の心配りである。
[蕨箒]わらびぼうき
蕨の根から取った繊維を束ね、青苧で結んだ内露地の飾り箒である。
[躙口]にじりぐち
茶室特有の小さな出入口。閉じられ、完結した茶室の空間を作るための装置。
[手がかり]てがかり
戸を開けやすいように、あらかじめ少し開けておくこと。

SHINJI YAMAMOTO

山元 伸ニプロフィールはこちら

Irish Black Rainbow

ドローイングについて

スケリグ・ヴィヒール島、6世紀、中世キリスト教の修道士たちが静寂を求めて辿り着いた最も西の地の果てにある島。その島を遠く望むボーラスヘッドの丘の近くで滞在制作をした。信じられないほど強い風の吹く野生的自然の力に囲まれ、当初はただ風の音を聞きながら一日を過ごしていた。アイルランドには一日に四季があると言われているよう、天候は一日中めまぐるしく移り変わる。そして毎日数多くの虹を見ることとなった。虹の色は限りなく濃く深く、二重になった虹、三重になった虹、時に五つの虹が折り重なって見えることもあった。虹はふつうそれなりの距離をおいたところに現れるが、そこでは時に至近距離に現れ、色の更なる深さ、強さとともに、水っぽい光の粒子の一つ一つが感じられるかのようであった。滞在を始めてから二三週間経った頃だったろうか、近くに住む夫婦から、満月の夜に見た黒い虹の話を聞いた。一度しか見たことはないというが、二人とも、それは紛れもなく虹だったという。

表装について

アイルランドで制作したドローイングを表装するにあたり、割出寸法には茶書「南方録秘伝」をかなめとし、裂地の取り合わせに時間を費やしていった。珠光(1423-1502)によって確立された茶掛け表装を再考する中、「風帯」という一見その用途の不明瞭なもの、その在り方が表装全体を決めるためのかなめとなっていった。
風帯は、日本の軸においてはほとんど単なる装飾であり、特に侘び表具では「貼風帯」となる。しかし「驚燕」とも呼ばれたように、中国ではもともと鳥除けであったと言われている。また、チベットの仏画表装、タンカでは「風抑え」と呼ばれ、絵を覆う「包布」を押さえている。日本でこの「包布」にあたるものは、初期密教で修法を行わないときに本尊を覆った帛布であろうか。仏像は常に姿を現す必要はなかったのである。
もの・ことは、時に隠されることによってその存在感が強められる。日本の秘仏はそのひとつの極めであるのではないだろうか。今回制作した軸の「紗」は、絵画を覆い保護するとともに不用心な視線をも遮る。絵画を見る行為を実現するためには、物理的に、あるいは精神的に紗を上げる必要があり、紗は絵画を単なる視覚的対象物から気配を生じる何かへと変貌させる手がかりになっている。

http://www.yamamotoshinji.com


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